一瀬さんて、普段はあんな話し方するんだ。敬語じゃなくて。気になっていたアクリル板の中の世界は、思っていた以上に居心地の悪いものでかなりのダメージを受けてしまった。カウンターの中から厨房に声をかければいいだけなのだけれど、同じ空間から少しでも離れたくて厨房の中に入り込む。「片山さん、デザートプレート一つお願いします、シフォンで」「へーい。……って何、綾ちゃんなんでそんなヘロヘロなの」「別になんもないです」ヘロヘロになってる人間にヘロヘロを指摘するのは余計にヘロヘロになるのでやめて欲しいです。「ちょっと大人の空気が居心地悪かっただけです」肩を竦め乍ら、笑って舌を出して見せると。「……なるほど」意味がわかったのか、片山さんはちらりとカウンターの方角へ目を向けた後、黙ってプレートの用意をし始めた。作業する片山さんの背中を見てから少し迷ったけれど、戻らずにこのままプレートが出来上がるのを待たせてもらうことにした。反対側の壁際にある業務用の冷蔵庫にもたれ掛かって、靴の爪先を眺める。今は、雪さん以外にお客さんいないし。誰か来たら、ここにいてもカウベルの音は聞こえる。そう、ここにとどまる言い訳を自分の中でしていると、ふとさっきまで聞こえていた調理器具が触れ合うような音が消えた。「綾ちゃん、ちょっとごめんね」気づくとすぐ目の前に片山さんがいて、不意をつかれた心臓がどくんと大きく高鳴る。片山さんは、観音開きの冷蔵庫の扉を開いて中から大きな絞り出し袋に入ったホイップクリームを取り出した。私が余程情けない顔をしていたのか、片山さんは間近で目を合わせた後、ふっと苦笑いをして背を向けた。「……全く、あの人も性懲りもなく毎日毎日、粘着質だよな」「あの……雪さんって、ただマスターに会いに来てるだけ、なんですか?」店が終わって私が帰った後、一体どんな話をしてるんだろう。こうも毎日っていうのは、何か理由があって来てるのじゃないだろうか。片山さんは私よりも遅くまで店に居るから、何か知っているんじゃないかと思って聞いてみた。片山さんは、作業の手を止めることなく、何か唸るような声を出してからひとつ溜め息を落とす。「ん……なんか、店の事を話し合っちゃいるけどね。雪さんは、やっぱり未練があんのかなぁ」「えっ……未練って。お店で働きたいってことですか?」
前面がガラス張りのその店は、緩やかな傾斜のバス通りから店内の様子が良く見えた。 ウッド調の内装、入口から左側はたくさんの花で無数の色が溢れ返り、右側のカフェスペースは通りの並木が程よく日差しを和らげて、内装と同じく無垢材のテーブルとイスが並べられている。 高校三年生の時、志望大学のオープンキャンパスに向かう途中で、私はそのカフェに目が釘付けになった。 大学までは、バスがある。 けれど歩けないほどでもなく、少し早めに家を出たための時間潰しにと徒歩で向かっていた。「あ、明日がオープンかぁ」扉に貼られた張り紙を見て、肩を落とした。 ガラスを通して見える店内の様子は、左側がカフェの装飾というには余りに花に溢れている。 不思議に思ってもう一度張り紙に視線を戻すと、明日の日付にOPENの文字。 そして、『花屋カフェflower parc』と書かれていた。―――あ、こっちはお花屋さんなんだ。出入り口の左側がきっと、花屋としてのスペースなんだろう。 花は種類ごとに分けて入れられ花の名前と値段が書かれたポップが貼られていた。 よく見ると、まだ何も置かれていない空いたスペースもある。 きっと開店当日の明日にはそのスペースも花で埋められる。 右側のカフェスペースとは中央のレジのあるスペースで分けられているが、遮るものは少ない。 あのテーブル席から、この花で溢れたスペースはきっとよく見えるだろう。 ―――こんなにたくさんの花を見ながら、お茶を飲めるなんて。元から花が大好きな私は想像しただけで胸が躍って、明日のオープンにもう一度来てみようか、なんて。 その時の私は、考えていた。*** 「結局、そのオープンの日には来なかったんですけどね」「へえ。それはなんで?」「大学に受かったら、来ようと思って! 願掛けのつもりだったんです」店内には、静かにクラシックのBGMが流れている。私がこの店に一目ぼれしたのはもう一年以上前の話で、その時の感動を思い出しながらついうっとりと熱弁してしまっていた。 相槌を打ってくれている厨房スタッフの片山さんは、白い制服姿で客用スツールに腰かけている。私はカウンターの中で、プラスチックの平たい番重からケーキをガラスのショーケースに移していた。「あ、じゃあ綾ちゃんって大学生? てっきりフリーターだと」「……フリーターで
「すみません。どんくさくって」たったあれだけの作業で手間取ってしまって、きっと呆れられた。恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながら俯いていると、くすくすと笑い声が上から落ちてくる。「仕方ないよ、まだ一週間だし……何より、教えてくれるはずのマスターがアレだしね」「はあ……」笑ってくれたことに少しホッとしたのと、『アレ』と含みを持たせた言い方に私もつい苦笑いを浮かべてしまう。確かに……とカウンター奥の階段に目をやる。階段が続く二階は住居スペースになっているらしい。このカフェのマスターである一瀬さんはそこで暮らしていて開店の十分程前に降りてくる。「教えるとかほんと向いてないよな、あの人」「いえ……そんなことは。私が気が利かないだけで」一応、マスターの顔を立ててそう言ったけど、零れる苦笑いは隠せない。確かに、あの人は教えるつもりがないのか、もしくは「見て覚えろ」とスパルタ系の人なのかと思ってしまうほど、バイト初日からほったらかしだった。見兼ねた片山さんが厨房から出てきて指示を出してくれるまで、私はおろおろとマスターから数歩離れた距離を保ってついて回るだけだった。『わかんないこととか、何したらいいか、とか、ちゃんと口に出して聞けばいいよ。男ばっかで聞きづらいかもしれないけど』片山さんがそう私に声を掛けてくれて、そのことで漸く気付いてくれたらしい。『じゃあ、伸也君。三森さんに仕事を教えてあげてください』きっとその瞬間まで、『教える』という事項はマスターの頭の中になかったんだと思う。「じゃあ、って。バイト初日の子が居たら普通、何からしてもらおうかくらい考えとくもんだよな」「あはは。研修資料とか指導カリキュラムとか、そういうのはないんでしょうか?」「ないない。そんなんあったら前のバイトの子も辞めてない」初日のことを思い出して二人で含み笑いをしていると、階段から足音が聞こえて二人同時に肩を竦めた。「おはようございます、伸也君、三森さん」「おはようございます、マスター」白いシャツの男性が階段を降りてくるのが見えて、私はぺこりと九十度のお辞儀をする。比べて、片山さんは「っす」とか語尾だけが聞こえた挨拶にもならない音を発しただけでするりと厨房に入っていった。マスターと二人取り残されて、一瞬の沈黙に私は忙しなく思考回路を働かせる。なぜだか
「ほらね、暇だったっしょー」夕暮れ時、天気の良い今日は西日が強い。日よけにサンシェードを天井から半分ほど下げて、それでも陽射しは暖かく店内に入り込み店の中も外も同じオレンジ色に染めてしまう。透明な光に、徐々に橙色が滲み始めるのをのんびりと見ていられるのは、暇だから故、なのだけど。「や、でも! お昼時はちゃんとお客さん入ったじゃないですか!」「そりゃ昼もゼロじゃ話にならないでしょ」カウンターに設置されている客用のスツールで片山さんはくるくると周りながらそんな話をする。私達の休憩用のコーヒーを淹れながら無言のマスターが気になって取り繕う言葉を探すけれど、見つからない。「どうぞ」ことん、ことんとカップが二つ、カウンター越しに置かれる。「ありがとうございます」とそのうちの一つを手に取ってマスターを見上げると、片山さんの言葉なんか何も気にした様子でもなく、目を閉じて自分のカップに口を付けていた。ほっとすると同時に、少し残念だった。マスターは、この現状をどうにかしようとは考えないのだろうか。視線を逸らして、店内を見渡す。コーヒーの香り漂う、静かな店内。素敵な店内だけれど、あのオープン前のように花に溢れたスペースは明らかに減っている。花は売れなければ処分するしかない。コストがかかることもあり、余りたくさん仕入れることが出来なくなってしまったらしい。お客さんが入ればある程度の時間までは延長するけれど、ゼロなら夕方六時で閉店。この辺りは大学やオフィスが多くて、ランチのお客様を逃せば夜は余り客入りは見込めない。どうしても、お酒やしっかりした食事の出る店に客足は向いてしまうからだ。壁の時計を見上げれば、ちょうど六時を指していた。「あっ。今日もお迎えがきたよお姫様」片山さんの言葉に、私はくるんと振り向いて店の外に目を向ける。ガラスの向こうに、背の高いすらりとした立ち姿を見つけて、私は小さく手を振った。「毎日毎日、過保護な彼氏だよねえ」「えっ、やだ、違いますよっ! ただの幼馴染ですっ!」片山さんにからかわれて慌てて否定するけれど、熱くなっていく顔は止められなかった。これ以上からかわれまいと、カップに残ったコーヒーを慌てて飲み干す。まだ少し熱かったせいで、喉からお腹の中まで熱が通って、ぎゅっと目を閉じて堪えた。そんな私はやっぱりから
「咲子が駅で待ってる。一緒に外で食事しようって」「お姉ちゃんが? あ、そうか。今日……」「お父さんとお母さんデートみたいだから夕飯ないんだって」「うん、昨日そんなこと言ってた」うちの両親は、未だにすっごく仲が良くて私達が高校生になった頃から月に一度は夜にデートに出かける。そんな日は、姉がご飯を作ってくれたり外に食べに行ったり、そして大抵お隣に住む悠君も一緒。悠君の家は両親共に仕事で遅くまで帰って来ないことが多く、子供の頃からよくうちにご飯を食べに来ていた。駅に着くと、お姉ちゃんがいち早く私達を見つけて片手を上げる。ふわりと花が咲いたみたいに優しく笑う姉に、私は駆け寄った。「綾、おつかれ」「お待たせ、お姉ちゃん!」「そんなに待ってないわよ」言いながら、手の中にあった小説を鞄に仕舞い込むと私から悠君へと視線を流す。悠君は私よりも少し後ろについて来ていた。「悠君、ありがとう。そんなに毎日迎えに行かなくても、綾も子供じゃないんだし」「わざわざ、ってわけじゃないよ。大学の帰りに寄ってるだけ」「毎日こんな遅い訳ないでしょ? 相変わらず綾には甘いんだから」肩を竦めるお姉ちゃんを、悠君はバツが悪そうな笑顔を浮かべて見下ろす。そうしたら、お姉ちゃんは『仕方ない』とでも言いたげに、苦笑い。―――あ。二人が醸し出す、少し大人びた空気を感じる度に、私は少し疎外感を感じてしまう。だから、二人の間に割り込んで両腕をそれぞれの腕に絡め定位置を陣取った。「悠君は甘いんじゃなくって心配性なんだよ」「どっちも大して変わらないわよ」しっかりした姉と、更に年上の悠君。二人にくっついて回る甘えたの私。幼い頃から変わらない関係図が、この頃少し寂しい。二人が通う大学に、追いかけようとして私だけが落ちて、いつまでも追いつけないのは年の差ばかりでもない気がして。私一人置いてけぼりになりそうな気がして、私はまたつい、甘えてしまう。「何食べる? 私ハンバーグ食べたい」「出た、綾のお子様メニュー。私は和食がいいな」「じゃあファミレスだな」悠君の言葉が合図で、三人同時に歩き出した。右側に絡んだ悠君の腕が暖かくて、さっきの寂しさが少し癒される。いつの頃からか悠君は特別。気が付いたら悠君ばっかり目が追いかけて、他の男の子を意識したこともない。もう、何年越し
そう答えたものの確かに店は暇で、たまに入るお客さんくらいなら一瀬さんが居れば十分だし、最悪片山さんしかいなくても数時間対処できそうなくらい、暇だ。 ホール担当が必要なんじゃないかと思えるのは、精々ランチ時くらいだった。 店の経営状況って大丈夫なんだろうか、とほんの数日勤めただけの私でも心配になるくらいだ。三人でご飯を食べて、家に帰るともう夜九時を回っていた。 ベッドに寝転がって壁の模様を見ながら、姉の言葉を思い出してつい考えてしまう。『なんでバイト募集なんてしてたのかしらね?』私って本当に必要な人員だったのかな。 面接の連絡をした時、余り歓迎されているような声ではなかった気がする。 でも、それは一瀬さんが元々ああいう素っ気ない感じの人だからだと……思う。―――――――――――――――― ―――――――――― どきどきしながら、面接当日私はカフェの扉を開いた。 一番奥の客席に促され、目の前にはやたら整った顔を持つ大人の男の人。 もしかして、何人も面接に来たりしてるのかな? にこりともしないその人に、私は内心でびくびくしていた。「ここまで迷いませんでしたか?」「いえ! 駅から一本道だし、前に来たことありましたから……お客として」「そうですか」そう言うと、後は黙々と私の履歴書に目を通す。―――ほんの一週間前くらいの話なんだけど やっぱり覚えてないよねお客の顔なんて。余りにも素っ気なく感情の見えない店の責任者らしい人物。 私は歓迎されていないのだろうか、と不安になる。 有線から流れるクラシックの音楽と、明るい陽射し。 客として来るなら心地よいその空間に、目を閉じて現実逃避したくなった頃。「……フラワーアレンジ?」問いかけるような声がして、慌てて逃げかけていた思考回路を呼び戻す。 初めて、興味を持ってもらえたような気がした。「あの、母が生け花の先生をしててその影響で。好きなんです、花を弄ったりするのが。花器に生けたりブーケにしたり……生け花って一応型はあるんですけど案外自由で、生け花の基本を押さえておくとアレンジやブーケにも役に立って……その、えっと……趣味の、範囲ですけど」自分の得意なことをアピールするのは、なぜだか気恥ずかしいものがある。 だけど、フラワーアレンジに目を留めてくれたことが嬉しくてつい夢中で語っ
「それ……捨てちゃうんですか?」「ええ、もう傷んでしまっているので」淡々とした口調に、少し胸がずきりと痛む。それでも、「手伝います」と言って隣に屈んだ。手に取った花は、確かに売り物にはならないだろう、萎びて変色しはじめている花びらが目立つ。……可哀想。ゴミ袋に透けて見える花達を見て、ついて出そうになった言葉を飲み込んだ時、一瀬さんがぽつりと呟いた。「可哀想なことをしました」驚いて、隣の横顔を見る。私と全く同じ言葉を声に出してくれた、その横顔は相変わらず無表情ではあるけれど。「せっかく綺麗に咲いてくれているのに、誰の手にも渡らずに」ほんの少し哀しそうに見えたことが、私は嬉しかった。「あのっ……良かったら、私に任せてくれませんか」そんな横顔を見ていたら、思わずそう声に出してしまった。不思議そうに私を見る一瀬さんに新聞紙を広げてもらうように頼み、私は肩にかけた鞄から花鋏を取り出す。ずっと、出番を待ってた花鋏。一番最初の仕事がこれでは哀しいけれど、これも仕事だ。私は、ゴミ袋に入った花をもう一度新聞紙の上に出し、切り花の姿を保ったままだった花を長さ五センチ程に寸断していく。ぱちん、ぱちんと躊躇うこともなく鋏を使う私に、一瀬さんが眉を顰めた。「三森さん、何を?」「花に対する、せめてもの礼儀です。綺麗に見てもらうために切り花にされた花だから、最後の姿は人目につかないようにって……生け花をしている母に教わったんです」本来、咲いて実を付けて種となって、翌年またたくさんの花を咲かせ命を繋げる。その流れを、切り花として断ち切られてしまった花たち。切り花としての役目を終えたなら、せめて可哀そうな姿は隠してあげなくちゃ。それは、私が母から教わったことで、母はお師匠さんから。生け花をする人全てが、そうしているわけではないと思うけど、その考え方がすごく好きだったから私もそれに倣っている。「……手伝います」一瀬さんが、作業台から花鋏を取って隣に座り込んだ。そして私と同じように、ぱちんと鋏を鳴らす。「あっ……すみません。私、もしかして仕事を増やしてしまったかも……」考えてみれば、家で生け花をしているのとはわけが違う。店舗なんだから、売れなければ始末しなければいけない花の量は半端じゃない。「いえ、とても良いと思います。私には考えも及びま
出過ぎたことを言ったんじゃないかと少し後悔しながら一瀬さんの反応を待っていたけれど、彼はあっさりと了承してくれた。「花の扱いについては、君に任せます」「えっ? あ、ありがとうございます!」まさか任せるなんて言ってもらえるとは思っていなかったから、不意のことで背筋が伸びる。やっと花で役に立てそうな予感がして、嬉しい反面少し緊張も抱える私に。「それと、三森さん。ブーケなんかは作れますか?」一瀬さんは、更に緊張するようなことを、言い出した。「趣味の範囲でならありますけど……売り物にするようなものは」「お願いしたいことがあるんです」売り物にしたことは、ないんだけどなー……。という、私の主張は、綺麗に流されてしまったみたい。程なくして片山さんが出勤して、ケーキの番重から冷蔵のガラスケースにケーキを移す。その間に私と一瀬さんは開店準備を整えて、オープンまでに少しの時間を作った。「折角の花屋カフェですから。それを活かした何かを作れないかと思いまして、ずっと考えていたんです」一瀬さんと片山さん、私とカウンターを中心にそれぞれ思う場所にいる。私と片山さんはカウンター内の丸椅子に腰かけて、一瀬さんは作業台に腰を凭せ掛けていた。一瀬さんが私にお願いしたいことというのは、スィーツのプレートとセットにして出せるくらいの、極々小さなブーケの製作だった。「スィーツのプレートとセットですから、ミニブーケには殆ど予算はとれないんですが……」「えっ、じゃあ今朝みたいに処分する切り花からってことですか?」「いえ、売り物なんですからそれはしません。ですが、とても小さなものでお願いしてブーケの方からは採算は期待しません」「ってか、ただボケーッとしてるだけかと思ってたけど。ちゃんと考えてたんだ」それまで黙って聞いていた片山さんの突っ込みに、私と一瀬さんの視線が集中する。一瀬さんは特に表情を変えることもなく。「当然です。これでもマスターですから」と言い、私は可笑しくて口元を抑えて笑った。片山さんは何かと一瀬さんに突っかかる物言いをするけれど、どうやらそれが二人のスタンスらしくて、少しずつ私もその雰囲気に慣れてきた。「伸也くんには、ブーケとセットで目を引くようなプレートを考えて欲しいのですが」「それはいいけど、新しいこと始めても客が来なけりゃ意味ないよ」「
一瀬さんて、普段はあんな話し方するんだ。敬語じゃなくて。気になっていたアクリル板の中の世界は、思っていた以上に居心地の悪いものでかなりのダメージを受けてしまった。カウンターの中から厨房に声をかければいいだけなのだけれど、同じ空間から少しでも離れたくて厨房の中に入り込む。「片山さん、デザートプレート一つお願いします、シフォンで」「へーい。……って何、綾ちゃんなんでそんなヘロヘロなの」「別になんもないです」ヘロヘロになってる人間にヘロヘロを指摘するのは余計にヘロヘロになるのでやめて欲しいです。「ちょっと大人の空気が居心地悪かっただけです」肩を竦め乍ら、笑って舌を出して見せると。「……なるほど」意味がわかったのか、片山さんはちらりとカウンターの方角へ目を向けた後、黙ってプレートの用意をし始めた。作業する片山さんの背中を見てから少し迷ったけれど、戻らずにこのままプレートが出来上がるのを待たせてもらうことにした。反対側の壁際にある業務用の冷蔵庫にもたれ掛かって、靴の爪先を眺める。今は、雪さん以外にお客さんいないし。誰か来たら、ここにいてもカウベルの音は聞こえる。そう、ここにとどまる言い訳を自分の中でしていると、ふとさっきまで聞こえていた調理器具が触れ合うような音が消えた。「綾ちゃん、ちょっとごめんね」気づくとすぐ目の前に片山さんがいて、不意をつかれた心臓がどくんと大きく高鳴る。片山さんは、観音開きの冷蔵庫の扉を開いて中から大きな絞り出し袋に入ったホイップクリームを取り出した。私が余程情けない顔をしていたのか、片山さんは間近で目を合わせた後、ふっと苦笑いをして背を向けた。「……全く、あの人も性懲りもなく毎日毎日、粘着質だよな」「あの……雪さんって、ただマスターに会いに来てるだけ、なんですか?」店が終わって私が帰った後、一体どんな話をしてるんだろう。こうも毎日っていうのは、何か理由があって来てるのじゃないだろうか。片山さんは私よりも遅くまで店に居るから、何か知っているんじゃないかと思って聞いてみた。片山さんは、作業の手を止めることなく、何か唸るような声を出してからひとつ溜め息を落とす。「ん……なんか、店の事を話し合っちゃいるけどね。雪さんは、やっぱり未練があんのかなぁ」「えっ……未練って。お店で働きたいってことですか?」
「……それでもまだ悩むなら、最悪マスターも一緒でいいよ」むすっと唇を尖らせてそう言ってくれた片山さん。「……最悪?」「そう、最悪。誘っとこうか?」なんだかそのやりとりが可笑しくて、変に堅苦しく考えてた自分のことも、少し可笑しくて。ぷっ、と思わず吹き出して、笑ってしまった。「いえ、大丈夫です。二人で行きましょう、向日葵畑」笑いながらそう言うと、片山さんはまた拗ねるかと思ったけどふわりと嬉しそうに笑ってくれた。そんなに、私と行きたいと思ってくれてたんだろうか。なんだか散々迷ったことが申し訳なるような嬉しそうな笑顔で言った。「良かった、最近元気なかったから」「そうですか?」「そうでもない?」「ないですよ」別に、ちょっと気になってるだけで元気がないことはないもん。そう思いながら、ハンバーグの最後の一口を口に入れた。片山さんの、「デートだと思わなくていいから」という言葉に力が抜けたのもあるけれど、反発心のようなものも含まれていたかもしれない。散々悩んでおきながら、こんなにあっさりと了承の返事をしてしまったのは。『嫌なら嫌と言えばいい』突き放されたような気がした、一瀬さんのあの時の言葉や、毎日目の前で感じるアクリル版で囲われた空間に。ふと、また私の立ち入れないあの空間が目の前を過った気がして、追い払うように頭を振る。「楽しみです、明日」「俺も楽しみ」笑い合って、私はお皿に残った惣菜を片付けながら片山さんと明日の話をした。片山さんは、余裕だなあ、と思う。彼から感じる好意はただからかわれているだけでもなく、そこはかとなく本気を思わせるのに、私が尻込みしてもなんだかんだ答えを待ってくれる。一瀬さんが絡むと、ちょっと大人げないとこはあるけど。『デートだと思わなくていい』それはつまり、片山さんの気持ちに応えるかどうかをまだ判断しなくてもいいよって、そういう意味なのだと思った。夕方、カウベルが鳴って。お客様じゃないとなんとなく、気が付いてしまう。いや、お客様には違いないんだけど。出入り口を見ると、やっぱり雪さんがいた。今日も淡い色のスーツが似合うすらりとした立ち姿で、夏の暑さを感じさせない、涼やかな微笑みを湛えている。「いらっしゃいませ」「こんばんは」雪さんは、いつも私にもきちんと挨拶をしてくれる。だけど、いつも案
梅雨が明けるとひと息に気温が上がり、急ぎ足で真夏がやってきたような感覚だ。蝉の泣き声が余計に体感気温を上昇させている。朝から既に汗を掻きつつ歩く店までの道中で、神社の参道に植えられた百日紅が鮮やかなピンク色の花を咲かせていた。夏の花は発色の鮮やかなものが多い気がする。店に先日からならんでいるミニ向日葵の鉢植えも、目に眩しい黄色の花をたくさん咲かせてくれている。夏と言えば大きくて背が高い向日葵が浮かぶけれど、ミニサイズの向日葵もまた雰囲気が違って可愛らしい。向日葵は太陽を追いかけて咲くという。この子達も、小さいなりに太陽を追いかけるのだろうか。店の外に並べて陽の光の下水やりをしながら、じっと花の角度を眺めてしまった。「綾さん、そろそろオープンしましょうか」扉が開いて、一瀬さんが顔を覗かせて声をかけてくれる。「はぁい」と私が返事をしたのを確認すると、扉の真ん中にフックでかけられているプレートを『OPEN』にひっくり返してまた中へと戻って行った。私はじょうろの中の水を空にして、今日も暑くなりそうな青空を見上げる。「多分、もう見頃なんだろうな」片山さんに誘われたまま、まだ返事をしていない向日葵畑。きっと今が丁度見頃の時期だろう。ちゃんと返事をしなきゃって思ってるのに、このところの私は他のことばかりに気を取られて、正直向日葵畑どころではなく……。なんて、そんな風だと片山さんにも失礼だなってわかってるんだけど。この頃、毎日の様に閉店間際に来る女性のお客様がいる。その人は一瀬さんと片山さんの知り合いみたいで……特に一瀬さんには特別な人のようだった。なぜって、その人がまだ客席に居ても、マスターはさらりといつものように私に言う。『今日はもう、仕舞いにしましょうか』と。彼女……雪さんがマスターの目の前でカウンターに座っていても、いつもそれほど話が盛り上がってる風でもない。雪さんが話しかけて、ぽつぽつと短い会話をしては、すぐに途切れる。彼女は少し肩を竦めて、また珈琲の香りを楽しむ。そんな空気が、酷く二人に似合っていて、まるで透明なアクリル板に阻まれたように私は二人に近づくことも会話を聞き取ることすらできなかった。今日も多分、夕方になるといらっしゃるんだろうな。片山さんが作ってくれた今日の賄いも、いつも通り美味しいのにあまり箸が進ま
愛ちゃんと飲んだ日の帰り道彼女が歩きながら煙草に火をつけたので行儀が悪いと窘めたらバツの悪そうな顔をして道の端に寄った。『そんな嫌そうな顔しないでよ』『男で煙草吸わない人ってさ、まるで愛煙家を親の仇みたいな目で見るのよね』『それこそ偏見でしょ』別に、他人が吸う分には俺はなんとも思わない。だけど、煙草のイメージアップを計ったのか愛ちゃんが煙草にも花言葉があるのだと胡散臭いことを言い始めた。『ほんとだってば! 煙草って別名思い草って言ってね』『へえへえ』むっと唇を尖らせていた愛ちゃんが、ふと真面目な顔をした。『あなたが居れば寂しくない』『へえ……』と相槌を打ったものの、それ以上言葉もなく。視線を絡ませたまままるで時間を止められたような錯覚。消すつもりのないらしい煙草の先から白く細い煙が上り、風に揺れて散らばった。『後はねえ、秘密の恋、孤独な愛、とか。 結構色気のある花言葉だと思わない?』にっ、と再び笑った愛ちゃんはいつもの愛ちゃんだった。『確かに。愛ちゃんには似合わないよね』『何おぅ!』結構本気の平手が飛んできて危うく顔面に食らうとこだった。今思い出しても、愛ちゃんはもうちょい明るいイメージで、やっぱりその花言葉は似合わない。もっと儚げな女か影のありそうな男とか。例えばこの、目の前の眼鏡堅物とか。確か、オープンした頃はマスターが愛煙家であることを知らなかった。多分ひと月ほどした頃だ。婚約者が店を訪れることはなくなり、裏口で煙草を燻らす姿を見るようになった。『煙草って別名思い草って言ってね』そんな風に聞けば、尚更その姿が意味深に見えてくる。「……何か?」「別に」視線を感じたマスターに問いかけられて、咄嗟に俯いてごみ淹れの蓋を締め直す。車のタイヤが道路との僅かな段差を超える音がして、そちらを向くと乗用車が一台駐車場に入ってくるのが見えた。もう外観の灯りは消してあるから、閉店しているのはわかるはずだ。方向転換でもして道路に戻るだろうと思っていたら、俺の(正確には親父の店の)白いバンの横の駐車した。店の正面ではなく側道に面した僅か数台が停められる程度のその駐車場は、裏口からでも良く見える。「あれ……あの車」紺のワーゲン。見たことある、と思ったもののすぐには思い出せなかったが。運転席から降りた女の
「俺のじゃないよ、それ」「えっ? そうなんですか?」「うん、俺吸わないし」ボールに入ったバターとマスタードをホイッパーでかき混ぜながら答えると、綾ちゃんは手を引っ込めて手のひらで転がしながらそれを見つめる。「じゃあ、通りすがりの人の落とし物かな? お店の裏口だからてっきり……」「いやいや。俺じゃないってだけで他に聞く人いるでしょ」「えっ?」こちらを見上げるきょとんとした表情が、ちょっとリスみたいで可愛い。くそ、何やっても可愛いけど。煙草イコール俺に繋がったくせに、なんであの人には繋がらないんだ。「綾ちゃんじゃないんなら」「私じゃないですよ!」「じゃあ、マスターしかいないでしょ」表情が、くるくる変わるのは本当に面白い。その視線の先に、なんで俺じゃなくてあの不愛想なマスターしかいないんだ。綾ちゃんが、「嘘っ」と驚いた声を上げ目を見開いた。「マスター、煙草吸うんですか? 全然イメージじゃなかった……すごく真面目そうだし」「へー……綾ちゃんの中では煙草=不真面目=俺なんだ」「えっ? あ、いえ。そういう意味じゃ……」しまった、と思いっきり顔に出して慌てて取り繕うけど、もう遅い。思いっきり拗ねたぞ、俺は。「マスター、吸うよ。綾ちゃんも帰った後、ラストに良く外で吸ってる」「そうなんですか。でも、想像すると似合いそうです。『大人の男の人』って感じで……」「大人だよ、様になってて男の俺から見てもカッコイイ」「へえ……」「隣に立つのは、やっぱカッコイイ大人の女が似合うよな」そうだよ、向こうはずーっとオトナなの。綾ちゃんからは、ちょっと遠いんじゃない?「そー、ですね」へらりといつもと同じ笑顔に見えても明らかに元気のない、風船から空気が抜けて萎んでいくような様子を視界の端に捕らえながら。「落ち着いた、大人の女の人が似合いそうですよね」「落ち着いた、っていうか。気の強そうなキャリアウーマンって感じだったな」俺の口は、止まらない。別に傷付けたい訳じゃないのに……ほんと、カッコ悪い。「キャリアウーマン?」「そう、元婚約者。オープン当初はよく店に来てたよ」「え」「この店、ほんとは彼女と二人でやるつもりだったらしいから」気付いたら、綾ちゃんは泣きそうなのを通り越して、呆然と口を半開きにしていた。「婚約、されてたんですか」
まあ、否定しない。今までそうだったし。「何ソレ。別にまだ付き合ってもいないんだし、スタイル変えることないじゃん。ばかばかし」「いや、そうかもしんないけどさ。禊っていうの?」なんとかどうにか綾ちゃんに近づきたいと思う。だけど、あの子見てると今までの自分が情けなくなる。綾ちゃんは、なんにでも一生懸命だ。大学受験に失敗して、引きこもってしまった、と恥ずかしそうに話していたけれど。同じように俺も失敗したけど、別にショックを受けるでもなく家庭環境も手伝って流されるように製菓の専門学校に入学した。自分の意思だったかというと、よくわからない。俺みたいにになんとなく生きていくよりも彼女みたいに逐一額面通りに受け取って、逐一ショックを受けて悩む方がずっとしんどいに決まってる。そんな綾ちゃんを見てると俺もちょっとは、心を入れ替えるべきかな、と思っちゃったんだよ。「だから、まずは色々と整理整頓しようかと思って」「……あんたそれ。人を小馬鹿にしてるって気付いてる?」さっきまではちょっと不機嫌な程度だった愛ちゃんが急に怖い顔で睨んでくる。別に馬鹿にしてるつもりはないんだけど。「なんで? なんも変わらないまま綾ちゃんに言い寄る方が馬鹿にしてる気がしねえ?」本気でわからなくてそう首を傾げると、愛ちゃんはますます怖い顔で溜息をついた。「……それが馬鹿にしてるっての。わかんないなら一生そのままでいれば」そう言って、ホテルに向かうことは諦めたのかバッグから煙草を取り出して火をつけた。女向けのメンソールの煙草を、細い指に挟んで唇の隙間から煙を吐き出す。しっくりくるその姿を見ながら、テーブルの端にある灰皿を差し出した。「驚かないんだ。私アンタの前で吸ったことなかったでしょ」「知ってたよ」「えっ、なんで?」「匂い」正直にそう言うと、「げ」と嫌そうに顔を顰め、肩に鼻を寄せて匂いを嗅ぐ仕草を見せる。身体からっていうより、キスしたりするとやっぱりわかるんだよな。俺が吸わないから。でも。「俺が煙草苦手だから、気を使ってくれてたんでしょ。知ってるよ」愛ちゃんは少し目を見開くと、すぐにまた顔を顰めて目を逸らす。だけどその頬はちょっと赤い。「やっぱアンタ嫌い」「ひでー」「酷いのはどっちよ。まー……好きな女が出来たらそんなもんなのかもね」「だか
別に俺が泣かせた訳でもないのに、罪悪感のようなものがまとわりつく。大体、あんな卑怯な男だとわかっていたら応援したりしなかった。幼馴染みだから、告白だとは思わなかったとか?んなわけない。どうであろうと、バレンタインに女に誘われたならちゃんと二人で会ってやるべきだ。あんな遣り方で牽制した男に腸が煮えくり返って仕方なかった。わざと見せ付けるような二人の空気に黙って引き下がった綾ちゃんが、いじらしいやらもどかしいやら。あんな奴と上手くいかなくて良かったけどさ。一発くらい殴ってやれば良かったんだ。それからというもの彼女が泣いていないか気になって楽しそうにホールを動き回る姿を見るとほっとして客と仲良くなって感情的になる彼女が心配にもなり客の彼氏に誘われてる姿を見てはハラハラしてこんなに俺が心配して振り回されてるっていうのに「悠くんは、あの人みたいに浮気性じゃないですもん」かっちーん。って。初めて綾ちゃんに苛ついちゃった。浮気性かどうかは知らないけどさ本性見抜けてないよな。あんな想いさせられたのに未だに慕ってたりするわけ?「幼馴染ってずるいよな。小さい頃から一緒にいるってだけで妙な信頼関係がある」「だって、悠くんはほんとに」「違うって言える? 幼馴染としてしか接してないのに」「そっ……」言ってしまってから、はっと我に返る。目の前には、明らかに傷ついて表情を固めた綾ちゃんの顔。今にも泣きだしそうに見えて、激しい罪悪感が押し寄せた。何やってんだ、傷つけたあの「悠くん」とやらに腹を立ててたはずなのに、俺が傷つけてどうするんだ。「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」「いいえ、本当のことだし」「余計なこと言った、ごめん」慌てて謝って頭を下げて、彼女は少し頬を引き攣らせたままだったけれど。「大丈夫ですよ、ほんとのことだし」「ごめんって」じきにほんとに笑顔になって、柔らかく首を振る。今傷つけたのは俺なのになんだか。そんな表情を見ていたら、何故だかもうたまらなくなって「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」気付いたら、そんなことを口にしていた。「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」思案顔で、俯いたままの彼女にそっと
びくんっ!と背筋が伸びて慌てて振り向いた。見られたくない、咄嗟にそう思ってしまったからきっと私はかなり慌てた顔をしていたと思う。それなのに、厨房とホールとの境目のカウンターで顔を覗かせる一瀬さんは至っていつも通りの無表情で、淡々と動じることなく片山さんを窘めた。「デートのお誘いは仕事の後にしてください」「へぇへぇ」慌ててるのは、私だけ。しかも、助けてもくれない……んですか。そのことが、自分でも驚くくらい、ショックだった。「……綾さん?」私と目が合ってはじめて一瀬さんの無表情が崩れる。代わりに浮かんだ困惑顔に、また一層、胸が痛んだ。私は一体、どんな顔で一瀬さんを見ているんだろう。ただただ、目頭が熱くて。困惑する一瀬さんの顔を見て、唇を噛んだ。一瞬の目線のやりとりを、片山さんに気づかれたのかはわからない。「……了解。デザートプレート二つね」溜息混じりの片山さんの声が酷く不機嫌だった。一瞬だけ握られた手の圧力が強くなる。それでも目を離せない私に、一瀬さんが少し目を伏せて言った。「向日葵。梅雨が長引いたせいで開花が遅れているそうですよ」「は? そうなの?」「ええ。期間中でも少し後の方に行った方が良いでしょうね。咲いてない向日葵見ても仕方ないでしょう」見るからに動揺している私のせいで気まずく澱んでいた空気が、ようやく少し流れ始める。「そりゃそうか……じゃあ、八月入ってからのがいいかな」残念そうな声と一緒に片山さんが立ち上がる。漸く握られた手が解放されて、やっと肩の力が抜けた。「片山さん、ごちそうさまでした」作業台に向かう片山さんにそう言うと、背中を向けたままひらひらと片手を振った。カウンターに戻ってすぐ、一瀬さんがぽつりと私に言った。「見頃になるまでに、お返事したらいいでしょう。嫌なら嫌と言えばいい」私の方をちらりとも見ずにそう言って、カップとソーサーをセッティングする。「はい……すみません」助けてもらったのか、突き放されたのかわからない。だけど、一つだけわかってしまったことがある。向日葵畑がいつ咲くのかよりも一瀬さんにどう思われるかそのことばかり気になって、仕方ない私がいることに気が付いてしまった。【一途なひまわり・前編】END――――――――――――――――――――――――――――――――――
「マ、マスターとそんなんなるわけないでしょ。マスターからしたら私なんてお子様にしか……」「うん、それもあるし」自分で『お子様』って言ったのに、全く否定してくれないお姉ちゃんに結構ダメージは大きかった。どうせ私は子供っぽいですよ。……多分、世間一般の同年齢の子達よりも、私はこういったことに疎いのだと思う。もっとちゃんと、真剣にみんなの恋バナを聞いて置けばよかったと、今更ながら後悔した。「っていうか、論点ずれてる。片山さんかマスターか、じゃなくって。そんな簡単にデートしていいものなのかなって……」「いいじゃない、それでもしかしたらドキドキしたりして、恋が芽生えることだってあるよ? きっと」「……ドキドキしたら恋なの? そんな単純?」「わからないからって立ち止まってたらわからないままじゃない? あんまり怖がらないで、案ずるより産むがやすしっていうわよ?」つまりそれは。まずは、デートしてみろってこと、でしょうか。お姉ちゃんに相談しても、結局悩みはすっきりとはしないまま。お風呂を済ませて、お布団に入ってまた頭を悩ませる。一瀬さんから見ると私なんか子供だってそれはよくわかってるけど、片山さんだって私よりも五つ上だ。それに、かっこいい。あんな風に見つめられたり、指にキスされたりしたら……どきどきして当たり前だと思う。肌掛け布団を口許まで引き上げたら、指先が目に入ってまたどきどきがぶり返して、暫く眠れなかった。◇◆◇翌日、朝から片山さんと顔を合わせるのに、すごく緊張したけれど。「おはよ、綾ちゃん」「おはようございます」彼はいつも通り愛想のよい笑顔で、ケーキの番重をカウンターの上に置く。そして、いつものように、目の前に停めた車を駐車場の一番端に停め直しに行く。「……あれ?」間抜けな私は、その時に漸く気が付いた。彼は毎朝、車でケーキの番重を積んで出勤してくる。おうちのケーキ屋さんは歩けない距離じゃないけど、手で持って歩くには遠いし車の方が安定するから。当然、昨日も車だったはずだ。片山さんはあれから、一度店に戻ったのだろうか。「ああ、はい。一度戻って来られてから車で帰られましたよ」一瀬さんにそれとなく聞いてみたら、そう教えてくれた。だったらなんで車で送ってくれなかったんだろう。車なら駅まで三分くらいだし、昨日は降られはし